それは深奥にして心奥、避けて通ることは叶わぬもの 5
シュウはホテルの部屋のベッドで寝ていた。
「フライゴン、バタフリー……。」
氷水に浸したタオルを額に置いてくれたパートナー達に声をかける。
「もういいよ、少し眠るから……。」
心配そうに自分の顔を覗き込む二匹に何とか笑いかける。
「大丈夫だから……。」
フライゴンとバタフリーはその笑顔に何か立ち入れないものを感じた。
黙って部屋から出て行く。
ドアが閉まるのを見て、シュウは力を抜いた。
作られていた笑顔は歪められ、その顔を手が覆う。
「ハルカ……。」
昨日から何度呟いたかも知れないその名をまた口にした。
ハルカはいつもぼくの隣で笑っていた。
ぼくはその笑顔が大好きだった。
彼女が笑ってくれるのなら、ぼくは何だってする。
でも、誰よりも彼女の笑顔を望んでいたはずのぼくが引き裂いた。
苦しかった。
彼女を傷つけてしまったことが。
彼女を泣かせてしまったことが。
昨日の晩のことを思い出してみても、自分がどうしてあんな行動に出たのか分からない。
――いや、心の奥では理解している。
それでもどうにもならなかった。
ハルカにずっと優しくしてあげたかった。
ずっと甘えさせてあげたかった。
ハルカはぼくを信じきっていた。
ぼくが彼女に危害を加えるはずがないと。
本心を隠して、そこまで信じさせたのはぼくだったのに。
あの無邪気な笑顔で自分を見上げてほしかった。
頬を撫でると擦り寄ってくる彼女が愛しかった。
自分だけに向ける笑顔で、ずっと自分に甘えてほしかった。
「ハルカ……。」
目に当てた手の甲に涙がにじむのが分かった。
ハルカを最悪な形で傷つけてしまった。
彼女は自分を信じてくれただけなのに、全てを彼女のせいにして。
彼女に償わせようとした――自分の罪を。
「君は悪くないのに……。」
もう彼女の傍にいられない。
「ぼくは君を求めることをやめられない……。」
彼女の肌をこの手に感じてしまった。
彼女の唇を貪る快楽を味わってしまった。
もう知らない振りをしていた頃には戻れない。
「君を傷つけてでも、ぼくは君が欲しい……。」
シュウの涙は目尻を伝い、ハルカの涙が零れた所に落ちた。
シュウはふと目を覚ました。
空気が揺れるのを感じたのだ。
しかし、部屋の中には自分以外誰もいない――部屋の中には。
「……あなたがぼくに何の用です?」
ベッドから起き上がりもせず、目だけを動かしてドアを見る。
「せっかくお見舞いに来てやったのにご挨拶ね。」
背の高い人影――ハーリーはドアに手を掛けて立っていた。
「恋人放っておいて、自分はベッドでぬくぬくと寝てるなんていいご身分ね。」
「……。」
ハーリーはシュウを見やる。
平静を装っているが、息は荒く、タオルのずり落ちた額にはうっすら汗も浮かんでいる。
かなり熱が高いようだ。
いつもなら、絶対にハルカはこんなシュウから離れようとしないだろう。
いつもなら。
「随分と傷つけちゃったみたいじゃない。かもちゃん、泣いてたわよ。」
「……知ってます。」
「いつものシュウ君なら、かもちゃんが泣いてたらどんなに熱があっても駆けつけるのにね。」
「……。」
ハーリーはシュウを観察する。
苦しそうに歪んでいる顔は熱のせいだけではない。
潤んだ瞳と涙の跡はハルカと同じ。
ハーリーはため息をついた。
「襲っちゃったことがそんなにショック?」
「っ!?」
シュウはガバリと起き上がった。
こちらを睨みつけるように見つめている。
「別にかもちゃんから直接聞き出したわけじゃないわよ。あの子が分かりやすいだけ。」
あのシュウ君が面白いくらいに動揺している。
「後悔するくらいなら、ずっと騙し続けて優しい顔だけ向けていれば良かったのに。」
シュウならそれが出来たはずなのだ。
ハルカを慈しみ、ずっと見守り続けてきた彼なら。
「そうしなかったのはハルカが欲しかったからでしょう?」
奪っちゃいなさいよ。
シュウはハーリーの言葉に表情を変える。
怒り、悲しみ、嘆き――その全てはハルカのために浮かべられたものだ。
「あなたには関係ない……。」
その感情を抑え、シュウは搾り出すように言う。
「その台詞をシュウ君が口にするなんて思わなかったわ。」
ハーリーは鼻で笑う。
「関係ないなんてよく言えたものね。ハルカをあんなになるまで傷つけて放り出しておきながら、自分は行動するのをやめたくせに。」
アタシが掘り出してやらなかったら、今頃本当に凍死してたわよ。
ハーリーは雪に埋もれかけていたハルカを思い出す。
静かに、眠るように――そのまま凍りつくことを祈るように目を閉じていた。
今、自分の顔に浮かんでいるのは怒りだろう。
何のために怒っているのか――この二人のために他ならない。
何でアタシがこいつらのために怒ってやらなきゃいけないのよ。
そう思って、怒りの上に不機嫌さを上塗りする。
「シュウ君、アンタがどうしようとアンタの自由よ。ハルカを傷つけたまま放っておくのも、謝って慰めて優しくベッドに連れ込むのも。」
シュウの目がナイフのように鋭くなる。
それを無視してハーリーは続けた。
「でも、そうやって自由にした結果がどうなるか、ちゃんと考えるのね。少なくとも、今のままだったら、事態は悪くなる一方よ。」
ハーリーは背を向けた。
「アンタがハルカを襲った結果がコレ。でも、アンタはそうなることが分かってたでしょう?後悔してる暇があったら、さっさと迎えに行きなさいよね。」
あの子は手がかかって仕方ないのよ。
その言葉を最後にハーリーはドアを閉めた。
シュウの部屋から去りながらハーリーは憤る。
何でアタシがここまでしなくちゃいけないのよ!
二人にはこのまま調子を崩してもらってた方が勝率が上がるのに!
ああもう!いつもの憎たらしいあの二人だったら、こっちも遠慮なく蹴落とせるのに!
ハルカもシュウ君も早くいつもの調子に戻りなさいよね!
ハーリーはドスドスと足音を立てながら廊下を歩いていった。
「迎えに行け、か……。」
シュウはハーリーの言葉を反芻していた。
迎えに行けば、ハルカは自分に縋り付いてくるだろう。
謝れば笑顔で許してくれるだろう。
それがハルカだから。
どんなに酷い目に遭わされても、相手を信じることをやめられない。
そうして、また傷つけられる。
愚かで優しい。
「ぼくはもうハルカの傍にいてはいけない……。」
ハルカが許してくれたとしても。
また同じ過ちを繰り返してしまうから。
彼女の全てを欲してしまうから。
愚かな蝶を傷つけないためには、棘のある薔薇は枯れるしかない。
棘で傷つけてでも自分のものにしてしまいたいという願いを殺して。
「ハルカ……。」
シュウは再び顔を手で覆った。
愚かで優しい薔薇は静かに蝶を想って泣いていた。