それは深奥にして心奥、避けて通ることは叶わぬもの 8
「じゃあ、私はこの階なので。シュウ様にお大事にって伝えておいてくださいね。」
「うん、分かった。またね、ワカナ。」
ワカナがエレベーターから降りて扉が閉まると、ハルカは肩から力を抜く。
今までずっとワカナと一緒に露天風呂に入っていた。
ワカナの天然温泉講座に続き、ポケモン達の演技、グランドフェスティバルに向けての意気込み、新しい魅せ方などを話していたのだ。
「でも……ちょっとだけらしくなかったかも。」
ワカナに心配をかけたくなかった。
今だってハーリーやサオリ、ポケモン達に心配をかけすぎているのだから。
でも、ずっと笑っている振りをするのは……少しだけ疲れた。
「あんな約束しちゃって……。シュウにお大事になんて言えるわけないのに。」
シュウを拒絶したのは自分、シュウに拒絶させたのも自分。
今更受け入れてほしいなんて言うのはとても自分勝手なのだろう。
「シュウ……。」
それでも受け入れてほしかった。
シュウはハルカの部屋のドアにもたれて、ハルカが戻ってくるのを待っていた。
サオリが帰った後、自分なりに色々考えて、結局何も思い浮かばなかった。
思い浮かぶわけがない、ハルカを求めて突き放したのは自分なのだから。
どうやったら彼女を癒せて、自分も癒されるのか。
少なくとも、自分は許されてはいけないような気がする。
こんなことをサオリの前で言えば、また怒られるのだろうが。
ただ、ハルカに会いたかった。
サオリに動けと言われたから動いているわけではない。
むしろ、こんな危険な動き方をサオリは望んでいなかったはずだ。
幸せな未来など思い描けない。
どうすれば良いのかなんて分からない。
ただ、ハルカに会って、抱きしめて、そして――。
シュウは自嘲気味に笑う。
また繰り返すのだろう。
分かっていても会いたかった。
ハルカを求めることをやめられない。
「シュウ……?」
ハルカが戻ってきた。
こちらを見て複雑な色を浮かべている。
会えて嬉しいという喜び――あれから5日しか経っていないのに、随分久しぶりに会ったような気がする――が溢れているかと思えば。
怯えや恐怖も確かに存在していて。
その怯えはぼくにまた酷い目に遭わされると思っているから?
無理やり唇を奪われたり、そうかと思えば近づくなと拒絶されたり。
繰り返すのを恐怖してる?
それでも――動いてしまった以上はとめられない。
「待っていたよ、ハルカ。」
シュウはハルカが目の前に来るのを待って言う。
自分から近づいたら、ハルカが逃げてしまうような気がしたから。
「シュウ、どうして……?」
「少し話があってね。」
何を話すかなんて全く決めてないけど。
「じゃあ、入って……。」
ハルカがドアを開けて、シュウを招き入れる。
シュウはドアをくぐった。
「もう起き上がって大丈夫なの?」
「ああ、サオリさんからもらった薬も飲んだしね。この調子なら、グランドフェスティバルには何とか間に合いそうだ。」
「そう、良かった。」
二人はソファーに座って話していた。
ハルカはソファーの隅に縮こまるように座っている。
シュウは二人の隙間がどうしようもなく悲しかった。
それでも、努めて平静を装う。
「ぼくのポケモン達を世話してくれているんだね、ありがとう。」
「そんな……シュウは体調が良くないんだから、ちゃんと寝てないと。」
ハルカの顔からは罪悪感が窺える。
きっと彼女は自分を責めているのだろう。
ぼくが熱を出したのは、自分が拒絶したせいだと思って。
拒絶したのはハルカでも、それを選択させたのはぼくなのに。
ハルカは優しすぎる。
ぼくの選択で、ハルカはまた傷つくのだろう。
それでもぼくはやめられない。
「ハルカ。」
シュウがハルカを見つめると、ハルカはますますソファーの端で小さくなる。
「ぼくが、怖い?」
返事は期待していなかった。
彼女の答えが何であれ、その瞳に浮かんでいるのは間違いなく恐れなのだから。
シュウはソファーの上を移動して、ハルカのすぐ傍まで行く。
ハルカの頬に手を置くと、ビクリと体を震わせた。
小刻みに震えながら、こちらを見つめ返すハルカにシュウは顔を近づけた。
静かに唇を合わせる。
「どうして抵抗しないの?」
ゆっくりと唇を離して、シュウは問いかける。
久しぶりに味わったハルカの唇は、やはり甘美だった。
欲しくて欲しくてたまらない。
何も言う気配のないハルカにもう一度口付ける。
ゆっくりと唇を割って、舌をすべり込ませる。
歯列をなぞって奥に侵入する。
舌を見つけ出して、絡ませて吸い上げた。
ハルカは何もしなかった――何も。
「どうして抵抗しないの?」
同じ問いをもう一度投げかける。
ハルカの瞳にはもう恐れの色は無い。
あるのは悲しみだった。
「シュウを拒絶したら、シュウもわたしを拒絶する……。シュウに受け入れられないのは嫌……。」
今にも泣きそうな声で言う。
その言葉の意味に気づいて、シュウは愕然とした。
――ああ、ぼくは失ってしまったんだ。
シュウは悟ってしまった。
あの夜、得られなかったものと同じくらい大切だったものを。
自分はそれを手にしていた。
その全てを得ていたわけではなかったけれど、それでもそのぬくもりが愛しかった。
自分は得ようとして失った――彼女の全てを。
ハルカは弱りきっている。
自分と同じものを失ってしまったと思い込んで。
今なら、全てを奪ってしまっても抵抗しないだろう。
しかし、違う。
「君は拒絶しないだけで、ぼくを受け入れてはいないね……?」
震えを必死に抑えているハルカを抱きしめる。
「ぼくは君が欲しい。君の全てをぼくのものにしたい。」
ハルカの腕は下がったままだ。
「でも、君は心にぼくを入れてくれない。」
シュウの失ったものはハルカの心だった。
見上げてくる笑顔も、甘えて擦り寄ってくる頬も、もう自分に向けられることは無い。
シュウは抱き返してくれないハルカを寂しく想う。
「ぼくを受け入れて、ハルカ。君の心も体も全てをぼくにちょうだい。」
これが――これだけがシュウの望みなのだ。
しかし、たった一つの望みは叶いそうになかった。
ハルカの目から涙が一筋零れる。
「……また君を傷つけてしまったね。」
シュウはハルカを放して立ち上がる。
そのままドアまで歩いていった。
「シュウ!」
ハルカの声がする。
振り向くと、ハルカが立ち上がって何かを言おうとしていた。
「……無理しなくていい。」
君はぼくを傷つけまいとして、自分が傷つくことを選びそうだから。
ぼくはそれが一番痛い。
「湯冷めしないようにね、ハルカ。」
シュウはドアを閉めた。
「分からないよ、シュウ……。」
ハルカは自分の体を抱きしめた。
とても寒い。
シュウがいてくれた時は、そんなの全く感じなかったのに。
「分からないよ……。」
拒絶しないだけで、受け入れていない。
シュウの言葉が重くのしかかる。
シュウに受け入れてほしいと願ったのに、自分が彼を受け入れていなかった。
シュウに受け入れてもらいたい。
でも、自分がどうしたらいいのか全く分からない。
大人しくして抵抗しないことが彼を受け入れることだと思っていた。
でも、彼はまた傷ついていた。
シュウに全てを任せてしまえたらと思っていた。
そうしたら、彼は喜んで、自分も楽になると思っていた。
でも――それじゃダメなんだ。
「シュウ……。」
ハルカはどうしようもなく苦しくて泣いていた。