蒼海は歌う 愛と喜びを



第二章   見えない月

 

 

 

 

 

 

 



シュウがハルカを見つけたのは、昼間二人でシンオウを眺めたライラック号の甲板だった。

「ハルカ……。」

シュウは乱れた呼吸を整えながらハルカに近づく。

風が強くてなかなか前に進めない。

空も雲で覆われて暗く、船のわずかな明かりが無ければ転んでしまいそうだった。

「シュウ……。」

ハルカが手すりに手を置いたままで振り向く。

その目には涙が浮かんでいた。

シュウは何とかハルカの隣に辿り着く。

手すりに置かれたハルカの手に自分の手を重ねた。

その時、二つのことに気付いた。

一つは、出会った頃から彼女がいつも頭にかぶっているバンダナを強く握り締めていること。

もう一つは、その握り締めた右手に嵌められた腕輪だった。

小さな光の中で蒼く輝いている。

「これは……?」

見たことのない腕輪だった。

ハルカが荷物に入れて持ち歩いていたのだろうか。

ハルカは右手を胸元に持っていく。

そのまま、左腕で右手を抱きしめた。

「ハルカ……。」

頬を伝うしずくにシュウは手を伸ばす。

「どうして泣いてるんだい?」

拭っても拭ってもこぼれ落ちる涙にシュウの手も濡れていく。

「……誰かを想って泣いてるのかい?」

シュウの言葉にハルカはハッと顔を上げる。

やっぱり――。

シュウは優しく慰めたい気持ちと、激しく問い詰めたい気持ちの間で揺れていた。

泣かないで、ハルカ。ぼくが傍にいるから。

誰なんだ、君が泣くほど想う相手は!君にはぼくがいるのに!

涙で視界が潤んでいるハルカはシュウの表情に気付いていない。

「シュウ、あのね……。」

ハルカが涙を左手で拭う。

「わたし、子どもがいたの……。」

――子ども?

ぼくとハルカの?

いやいや、ハルカは「いた」と言った。

それに、ぼく達の子どもだとしても、できたって分かるのはもっと先だし。

じゃあ、他の男との子ども?

ハルカをぼく以外の男が抱いた?

……許さない。

シュウはハルカの頬に当てていた手を後頭部に回し、自分に引き寄せた。

強引にハルカの唇を奪う。

舌でハルカの口内をかき回し、ハルカの膝から力が抜けるまで責め続けた。

「……忘れなよ、そんなこと。」

ぐったりしているハルカの腰を支えながら言う。

ハルカは力なく首を横に振った。

「忘れるなんてできないよ……。」

「どうして!?」

シュウは叫んでいた。

あまりにもハルカが愛しかったから。

愛しくて愛しくてたまらなくて、自分だけのものでいてほしかったから。

「君にはぼくがいるじゃないか!どうしてぼくだけを見てくれないんだ!」

怒鳴られて、それでもハルカはかぶりを振る。

「忘れられないよ……。絶対に忘れることなんてできない……。」

「どうして!」

シュウはハルカを強く抱きしめる。

折れる程に細く、もう少し力を込めたら本当に折れてしまいそうなほど儚げだった。

「どうして他の男のことなんか考えるんだ!」

シュウの言葉に、ハルカは眉をひそめた。

「……あの子の性別はハッキリ分からないのに、どうしてシュウに性別が分かるの?」

「は?」

二人の間に沈黙が下りる。

その沈黙を破ったのは、やはりシュウだった。

「……君、何の話をしてるんだい?」

「わたしの育てた子どもの話。シュウこそ何の話をしてるの?」

「君の昔の男の話。」

「……。」

再び下りた沈黙は、風の音だけを辺りに響かせる。

「……君の子どもだよね?」

「わたしの育てた子どもよ。」

「君の産んだ子どもじゃなくて?」

「当たり前じゃない!」

ハルカはシュウの腕を振り払って離れる。

その顔は小さな光でも分かるほど真っ赤に染まっていた。

「あ、あんなことしたの、シュウが初めてよ!」

「じゃあ、君の昔の男っていうのは……。」

「シュウの勘違いかも!」

――わたしの初恋はシュウだし。

ハルカの聞こえるか聞こえないかといった呟きがシュウの耳に届く。

「そうか、ぼくの早とちりだったのか。」

シュウはハルカに手を伸ばして抱き寄せる。

先程と同じ仕草、しかし、込められた感情は全く違う。

「良かった。君がぼくだけのもので。」

突然上機嫌になったシュウにハルカは目を白黒させる。

ハルカの髪を撫でながら、シュウはそこでふと気付く。

「じゃあ、君の育てた子どもって?」

「ポケモンの赤ちゃんよ!人間じゃなくて!」

ハルカの顔がまた赤く染まる。

しかし、赤くなった顔をシュウの胸に押し付け、服をぎゅっと握った。

「でも、本当の子どもみたいに可愛かった。とっても大事に想ってた。」

「……その子を思い出して泣いてたんだね。」

ハルカはこくりと頷く。

シュウは気付いた。

だからハルカは暗く沈みこんでいたのだ。

今はいないその子を思い出して。

だからハルカは幸せそうだったのだ。

その子と楽しく過ごしたことを思い出して。

「でも、どうして突然?パーティーの時から様子がおかしかったけど、パーティーでは天気の話をしてただけなんだろう?」

「……今日、曇ってて見えないけど、この辺りは皆既月食なんだって。」

ハルカはシュウの腕の中で空を見上げる。

「皆既月食の日は、わたしとあの子にとってとても大事な日だった。そして、その子と別れたのが皆既月食の翌日だったの。」

シュウの腕を解き、ハルカは上に向けていた視線を海に落とす。

暗い海は何も映さなかった。

「この腕輪は、あの子のいる所に繋がってるの。そして、このバンダナは大切なあの子が探してきてくれた大切なバンダナ。」

腕輪は変わらず、淡い光の中で輝いていた。

「会いたいよ、あの子に……。会いたい……。」

ハルカの目からまた涙が零れる。

シュウは再びその雫に手を伸ばした。

その時、ライラック号が凄まじい音と共に大きな揺れに襲われた。

「っ!?」

シュウは咄嗟に手すりを握る。

しかし、ハルカは傾いた甲板でバランスを取ることができず、海に投げ出された。

「ハルカ!」

シュウは身を乗り出してハルカの腕を掴む。

しかし、利き腕ではない左手で掴んだハルカの腕はずるずると滑っていった。

「シュウ……、このままだとシュウまで落ちちゃうよ……。」

「だからその手を離せなんて言わないだろうね……!」

シュウは手すりを掴んでいた右手もハルカに伸ばす。

「絶対に離さない!絶対に!」

シュウの右手がハルカに届く直前、船は二度目の轟音と揺れに襲われた。

その揺れにとうとうシュウもバランスを崩し、ハルカと一緒に甲板から投げ出された。

「ハルカ!」

それでもシュウはハルカを自分に抱き寄せる。

二人は冷たい海に叩きつけられた。

衝撃と寒さで気を失いかけながらも、シュウはハルカを離さなかった。

自分達の体が海に沈んでいくのを感じながら、シュウはほどけていく思考を何とか繋ぎとめようとした。

それでも酸素と一緒に思考は薄れていく。

海の中にいくつもの光が現れるのを最後に、シュウの視界は黒く染まった。

 

 

 

 

 

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