蒼海は歌う 愛と喜びを



第八章   The beautiful seas

 

 

 

 

 

 



翌朝、マナフィが二人の部屋に行くと、ちょうどシュウが扉から出てくるところだった。

「おはよう、マナフィ。」

シュウがニコリと笑って挨拶する。

「おはよー、シュウ。ハルカはー?」

マナフィは扉の隙間から部屋に入ろうとした。

しかし、シュウに抱き上げられてしまう。

「マナフィ、ハルカはまだ寝てるんだ。邪魔しちゃダメだよ。」

「ハルカねてるー?もうあさなのにー。」

部屋を覗き込もうとすると、シュウが扉を閉めてしまった。

閉められる直前、ちらりと見えた部屋の床には、昨日の夜ハルカの着ていた服が散らばっていた。

マナフィは考える。

もしかしたら、ハルカは暑くてあまり眠れなかったのかもしれない。

服を脱いでもその暑さは変わらなかったのだろう。

だから、朝になっても起きてこないのだ。

「シュウー、あんまりハルカだっこしちゃダメー。ハルカねむれないー。」

シュウがハルカにぴったりくっ付いていたから、ハルカは暑かったに違いない。

そう思ったマナフィはぺちぺちシュウの胸を叩く。

シュウはびっくりした顔でマナフィを見た。

「マナフィ、ぼく達が何してたかこっそり見てたのかい?」

「マナフィがねるとこいくとき、シュウ、ハルカぎゅってしてたー。」

マナフィは部屋を出る前のことを言っているだけだ。

そう気付いたシュウはほっとする。

「子どもにはまだ早いからね……。」

シュウは廊下を歩き出す。

「シュウ、もうハルカだっこしちゃダメー。マナフィにかえすー。」

「はいはい、マナフィに貸してあげるよ。」

「ちがうー!マナフィにかえすのー!」

ハルカを取り合いながら、シュウとマナフィは部屋から離れていった。




「ハルカおきてこないー。マナフィ、ひまー。」

昼近くになってもハルカは眠ったままだった。

マナフィは庭園の芝生の上で仰向けに寝転んでいるシュウを揺する。

「シュウのせいー。シュウがハルカずっとだっこしてたからー。」

「そうだね。一晩中抱いてたから、ハルカは疲れてるんだろう。」

「つかれるー?あついとちがうのー?」

「まあ、熱かっただろうね。」

微妙に噛み合っていない会話はしばらく続いていた。




それでも話しているだけというのは飽きてくる。

マナフィはシュウの胸によじ登って、シュウの顔の前に来た。

「シュウ、あそぼー。」

「マナフィは海が美しいって思ったことあるかい?」

「うつくしー?」

マナフィは首を傾げる。

人間の言葉をかなり覚えてきているが、それでもしょっちゅう初めて聞く言葉が出てくるのだ。

「綺麗ってことさ。」

「きれー?」

説明に困ったシュウは胸に乗ったマナフィを仰向けに返す。

「マナフィ、上を見てごらん。」

言われて、マナフィはドームの天井を見上げる。

海の浅い所を潮が流れているのか、神殿まで日の光がキラキラと差し込んできていた。

その光で海が淡い色から濃い色へと変化していくのがよく分かる。

光の中を水ポケモン達が優雅に泳ぎ、その体は金粉をまぶしたように輝いていた。

「ああいうのを美しいって言うんだよ。ずっと眺めていたいって思うもののことだ。」

「うつくしー……。」

ずっと海で暮らしていたから、自分の住んでいる所がどんな場所なのか考えたことなど無かった。

それでも、これからもずっと海で暮らしていくのだろう。

海が好きだから。

海に住んでるみんなが好きだから。

「マナフィ、うつくしー、すき!」

好きだからずっと眺めていたい。

好きだからずっとそこにいたい。

好きだからずっと一緒にいたい。

好きだから美しくて、美しいから好きなんだ。

「うみ、うつくしー!」

「そう、マナフィ、海は美しいんだよ。」

マナフィはシュウの胸から起き上がり、シュウの顔を覗き込む。

「シュウ、うつくしー、すき?」

「好きだよ。ぼくは美しいものが好きだ。」

「シュウ、マナフィとおんなじー!」

マナフィがシュウの胸の上で飛び跳ねる。

「痛いよ、マナフィ。ほら、大人しくして。」

はしゃぐマナフィを抱きとめ、シュウはまたマナフィを仰向けに抱く。

二人はずっと海を眺めていた。




どれほど海を見つめていただろうか、やっとハルカが起きてきた。

「シュウ、マナフィ、おはよう!」

庭園に寝転ぶ二人を見つけ、赤い袖をなびかせて廊下を駆けてくる。

「ハルカ、走ると危な――。」

「きゃっ!」

起き上がりかけたシュウのセリフが最後まで届く前に、ハルカは廊下と庭園の段差につまづいて転んだ。

「まったく……。」

シュウはマナフィを下ろし、立ち上がってハルカに近づいた。

ハルカに手を差し伸べる。

「人がいつも呼びかけてるのに、君はいつも転ぶんだね。」

「……仕方ないじゃない。転ぶときは誰だって転ぶものよ。」

ハルカがその手を掴んで起き上がる。

「君は注意が足りないから転んでるのさ。全く美しくないね。」

「美しくなくて悪かったわね!」

ハルカがシュウの手を振り払う。

ぷいとシュウから顔を背け、マナフィの方へ向かおうとした。

が、ハルカはピタリと足を止める。

「マ、マナフィ!?」

ハルカの慌てた声に、急いでシュウも振り返る。

少し離れてこちらを見つめているマナフィは涙を浮かべていた。

「どうしたんだ、マナフィ!?」

二人がマナフィに駆け寄ると、マナフィは堰を切ったように泣き出した。

「ど、どうしたの、マナフィ?どこか痛いの?」

ハルカがマナフィを抱き上げ、優しくあやす。

それでもマナフィは泣きやまない。

まるで赤ん坊に戻ったようなマナフィにハルカは困惑する。

「どうしたんだい、マナフィ?」

シュウが優しく頭を撫でるが、マナフィはその手を振り払った。

「マナフィ!?」

二人は驚く。

マナフィがシュウを拒絶したことなど一度も無かったのだ。

「マナフィ、どうしてこんなことするの?」

ハルカがシュウの代わりに頭を撫でながら聞く。

撫でられて少し落ち着いたのか、マナフィがしゃくり上げながら小さく言った。

「……シュウ、ハルカのこときらいっていった。」

「はあっ!?」

思わず叫んでしまったシュウの顔をハルカが見る。

シュウはぶんぶんと首を横に振った。

「シュウは言ってないって。」

「シュウいった!ハルカきらいって!いったー!」

再びマナフィは大声を上げて泣き出す。

「ああ、よしよし、マナフィ、泣かないで。」

ハルカが歩き回り、マナフィをあやす。

そして、キッとシュウを睨み付けた。

「シュウ!何マナフィ泣かせてるのよ!?」

「ぼくじゃない!ぼくはそんなこと言ってない!」

「現にマナフィ泣いてるじゃない!」

ハルカに怒鳴られ、シュウは必死で考える。

自分はハルカが嫌いなどとは言っていない。

言うわけがない、よりにもよって愛する人を嫌いなどとは。

しかし、自分がそう言ったとマナフィは完全に思い込んでいる。

何故そう言ったと思い込んでいるのか――シュウはハルカが来る前の会話を思い出す。

あの時、海は美しいと二人で話していた。

その後、マナフィから美しいものは好きかと聞かれたから好きだと答えて。

自分が好きと言葉に表すものなんて、ハルカと美しいものだけだ。

それを聞いたマナフィはとても嬉しそうに笑っていた。

なのに、今は泣いている。

シュウはさらに思い出す。

二人で海を眺めていたら、やっとハルカが起きてきて。

こちらに走ってきて転んだから、手を取って起き上がらせて。

それでハルカが全く注意を聞かないから美しくないと言って。

……美しくない?

「あの時、ハルカに美しくないねって言ったから……?」

それを聞いたマナフィが一段と大きな声で泣く。

「美しい」が好きなら、「美しくない」はすなわち嫌い。

マナフィの中ではそういう公式が成り立ってしまっているのだろう。

「何の話?」

首を傾げるハルカの腕からマナフィを抱き上げ、正面から向き合う。

「マナフィ、ぼくはハルカのこと好きだよ。」

「でもきらいっていった!」

「あれは言葉の綾というやつで……。」

「いったー!シュウ、ハルカきらいってー!」

ハルカの視線が背中に突き刺さって痛い。

シュウは必死でマナフィをあやす。

「あれは嘘!美しくないなんて思ってない!」

「うそー?じゃあ、シュウ、ハルカすき?」

マナフィが一瞬泣き止んだので、その機を逃すまいとシュウは何度も頷く。

「そう、ぼくはハルカが好きだよ。」

「じゃあ、ハルカうつくしー?」

「うっ……!」

恐る恐る後ろを振り返ると、大まかな状況を察したハルカが何かを期待するような目でこちらを見つめていた。

「ハ、ハルカを美しくないなんて思ったことはないよ。」

「そーじゃない!シュウ、ハルカうつくしーっておもってる?」

何とか誤魔化そうとしたシュウをマナフィは逃がさなかった。

顔を逸らそうにも、そんなことをしたら目にたまった涙がまた溢れそうで怖い。

「……ハルカは美しいよ。」

シュウは観念した。

後ろからクスクス笑いが聞こえてくる。

「どれくらいー?」

しかし、マナフィの追撃はまだ収まらなかった。

「あれよりもー?」

マナフィの手が上を指す。

先程二人で眺めた海が揺らめいていた。

「……あれよりもずっと。」

「ずっとってどれくらいー?」

「……。」

ああ、もうどうにでもなれ!

「ずーっと!ずーっとハルカの方が美しい!世界で一番ハルカが美しい!」

ぜいぜいと息を切らしながら、シュウは後ろを振り返った。

ハルカが涙を浮かべながら笑っている。

どうしてぼくがこんな目に……。

腕に抱いていたマナフィが、シュウに思い切り抱きついた。

「シュウ、ハルカすきー!ハルカうつくしーっていった!」

先程まで泣いていたのに、もうニコニコ笑っている。

「シュウ、顔真っ赤よー。」

ハルカがシュウの顔を覗き込みながらからかうように言う。

「分かってるよ……。」

だから子どもは恐ろしい。

シュウは穴があったら入って埋まって一生出てきたくない気持ちでいっぱいだった。




それからしばらくの間。

「シュウ、わたしのこと美しいって思う?」

「……。」

ハルカの腕の中でマナフィがこちらをじっと見上げている。

「……美しいよ。」

「どれくらい?」

確信犯的な笑みを浮かべたハルカがシュウに迫る。

マナフィは真剣な目でシュウを見つめている。

「……世界で一番。」

「よく出来ましたー。シュウ、えらい、えらい。」

ハルカに頭を撫でられ、俯いて赤くなるシュウの姿が神殿のあちこちで見られた。

 

 

 

 

 

第九章に進む

戻る